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「ボクのドイツ単身留学・武者修業」
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ドゥ ビスト メッツガーDu bist Metzger−君はハム職人なのだ−
(株)大多摩ハム小林商会代表取締役社長 小林和人
左:フロイツハイム氏と |
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2)ドイツへの夢 ドイツの学校に留学するのは比較的困難なことではありません。しかし技術者、広い意味での労働力として向こうに渡るためには、多くの外国人労働者を抱えて高失業率に苦しむドイツ政府から、特別の許可が必要となります。当時日本の失業率はせいぜい2%台でしたが、ドイツの失業率はなんと10%を超えていました。いろいろな経済的要因があったのですが、当時のドイツ国内の空気は外国人労働者があまりにも多いせいだという感情が蔓延し、国家が特別に必要とする技術者でない限り外国人は新たに働くことができない法律が可決されてしまったのです。在日ドイツ商工会議所の関係者を訪ねて行くと、「100パーセントとは言わないが99.99パーセント無理でしょう。諦めた方が良いですね。」とのこと。確かにそうです。私はドイツ政府が特別に必要とする技術者でも何でもないのです。そうでなくてもこの世の中、どこの馬の骨かわからない一外国人を受け入れてくれるところが、ありそうには思えない、私自身もそう思いました。 でも夢は捨てきれません。0.01%の望みがあるならそれに賭けよう。文字通り万が一ということもある。しかし、1万人にひとりか・・・。 予期した通り返って来る答えはどこも「Nein」(ノー)。変わったところでは珍客をしゃべるだけしゃべらせておいて、「実はここじゃないの。隣の部屋でまたやってくれる?」。礼を言ってドアを閉めるとドアの奥で大爆笑などということもありました。 帰国が迫ったある日、ようやく最後のところで、「わかりました。私にまかせて下さい。あなたは日本で私からの手紙を待っていて下さい」という夢のような返事。半信半疑で日本に帰り、手紙を待つこと6ケ月。やっぱりだめだったかと半ば諦めかけた頃、ケルンからの一通の手紙。高鳴る胸をおさえて封を切る。一行目。「あなたを受け入れて下さる方が見つかりました。ケルンの食肉組合長、オーバーマイスターでいらっしゃる、フロイツハイム氏です。」 その文章を読んで湧いてくる、念願が叶った喜びと、「大変なことになった」という不安が入り交じった奇妙な感覚は今でもはっきり覚えています。 |
3)ケルンへの険しい道 西ドイツ第4の大都市ケルンで私は働くことになりました。親方のフロイツハイム氏はドイツ全土において最年少でオーバーマイスターに就任したケルン食肉業界の最高実力者です。政府の滞在許可は、彼(以降F氏)が直接プレジデントに掛け合ってくれたため、例外中の例外として手に入れることができました。彼の家に居候して、勝手に仕事は手伝うけれども、お金のやりとりはしないので法にふれない、という論拠でした。当時、ドイツの大学や音楽学校への留学はさかんでしたが、ドイツのハム屋で働くことのできた日本人は私の年齢では今の日本の業界でも稀なことから、まさに0.01%の狭き門だったのかもしれません。 そうと決まったら早くドイツに行きたい。でもインターネットのない時代です。手紙の一往復に2週間近くもかかるのです。いてもたってもいられず、日本橋の丸善で欧州列車時刻表を購入し、ケルン駅に最短で到着できる日時を手紙に書き、了解の返事をいただくや否や日本を出発しました。 Karl-Heinz Froitzheim氏彼は貫禄がありかつ紳士的で、彼の家族や、職場で私が一緒に働く同僚達を紹介してくれました。小説などの世界ではこういう時F氏に美しい娘があって、華麗なストーリーが展開するんだろうなあ、なんて汽車の中で考えたりしたのですが、実際F氏には16才の娘さんがいて、それがまたブルック・シールズを小柄でぽっちゃりさせたような美しさ。紹介されてあまりの可愛らしさに思わず「話が出来過ぎている!」 |
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厨房内にて |
そう話はうまくなく、実際職場での仕事は想像を絶する厳しさでした。ご存知のようにドイツは中世からギルドの歴史を誇り、手工業においては完全な徒弟制度が今も根強く残っていて、親方、職人、徒弟の上下関係は絶対です。特に私がいたところはその傾向が著しく、親方は下の者を容赦なく叱り飛ばします。私が仕事を始めてしばらくはF氏も遠慮していたのでしょうか、カミナリを落とすことはありませんでした。しかしそんなある日、同僚が古い牛肉から取りかかるべきところ、新しいものに手をつけてしまったようで、冷蔵庫を見に行ったF氏がそれを発見。数10キロある牛肉をかついで出てきて作業台の上に叩き付けるやいなや、天を突く大声で、「こんな簡単なことが出来ないんだったら、もう君たちは手伝ってくれなくていい!」 |
| あまりの迫力に私は唖然。話によるとあれが徒弟達に対するF氏の本来の姿なのだそうです。でもF氏は私に対してだけは決して怒らず優しく話してくれるので、私は時々難しい立場になります。 例えばこんなことがありました。挽肉機の刃を取り替える仕事を私がやったところ、間違えて10ミリの細切れが5ミリのズタズタになってしまったのです。それを見たF氏が傍にいた私の同僚をつかまえて。「何で気が付かなかったんだ!」とまた叱り飛ばしました。私は非常に申し訳ないと思いましたが、思いのほかその同僚は私には怒りの矛先を向けず、ヤツには気を付けなければいけない、と思っている様子で、間違いの原因となった挽肉機の刃の名称を、後で熱心に私に教えるのでした。それにしてもドイツには挽き肉機の刃、数種類それぞれに固有の名前があるのには驚きました。 |
5)私の同僚達 私の同僚達は皆私より若いながらもはるかにデカく、牛のような連中です。この世界では年齢よりも経験の長さがものをいい、私は経験ゼロなので序列の一番下。私の希望もあって新米がやるべき仕事を優先的にやらせてもらいました。当初大変な仕事のひとつは床磨きでした。「カズト、床をこすってみろ」とデッキブラシを渡され、常識的な要領で床磨きを始めました。が、同僚は私からデッキブラシを奪い取るが早いか、「いいか、こうやるんだ、見てろ」と言って牛のような体をふたつに折り曲げ、あたり一面水しぶきをあげてこすりはじめました。そのものすごいこと。デッキブラシの柄が折れんばかりです。以来私はそれと同じ作業を要求され、もうその仕事だけで体力を使い切ってしまいました。 ☆)ドクターストップか 私は極度の疲労とストレスでノイローゼ寸前。ついに血尿が出てしまいました。私は驚きすぐに医者にかかりましたが目の前は真っ暗です。世の中には留学経験者がたくさんいるのに、みんなどうして健康でいられたんだろう。これで帰国しなくてはならなくなるのだろうか・・・と不安にかられました。 ドイツ人とのやりとりで、ようやく気づいたのですが、ドイツ人社会では、少なくとも私の職場では、言われたら言い返すことができなければそれは自分の非を全面的に認めることになります。言うなれば、「早くしろ!」「・・・・(無言)」の場合、「私は怠けています」という意思表示になるのです。それを悟った私は常に頭の中で、ここらへんでヤツは言ってくるだろう、そうしたら私はこう言い返そうとドイツ語で考えることを心がけました。すると予想通りくるではありませんか、「カズト、そんな仕事に何時間かけているんだ!」そして私は即座に「黙れ!君がこれをボイルしすぎたから、ここで手間がかかってしまうんだろう!」すると彼は「・・・・。」 私は勝ったのです。日本でこれをしたら間違いなく人間関係が破壊されますが、ここではまったく逆。このように攻撃的に反論することによって、みんなから「ああ、ヤツは今日もがんばっている」と思われ、かえって人間関係はスムーズに行くという不思議な世界なのです。実際先程の彼との仕事はその後快調に和気あいあい進みました。もう大丈夫です。神様、ありがとうございます! |
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同僚達 デカくて粗っぽいけど気の良い連中です。ビールは一晩4リットルは飲みます。私もここで鍛えられました。 |
☆)ドイツの製品がおいしいのは がむしゃらに働きながらも頭は比較的クールでした。知れば知るほど驚きが見えてきました。ドイツの伝統製法にはある重大な特徴があります。これは偶然ではありません。ドイツの製品がおいしいのは下記の理由によります。 ドイツ式伝統製法の特徴は、 @牛乳、卵、植物から作った「異種たんぱく」をハムやベーコンに添加しないこと。 A直下式で燻製すること、 Bベーコンを煮たり蒸したりせずに作ること、 C最小限の添加物で造ること、です。 これは私がドイツに渡る前に大多摩ハムで習った製法、考え方とまったく同じでした。日本では上記の4つを厳守するメーカーは大変めずらしいのですが、ここでは「常識」でした。祖父が大正時代にドイツ人から教わった方法を大多摩ハムがいまだに守り続け、当のドイツでもまた頑固にその製法を守り続けていたのは驚きで、私はここドイツに来るべくして来たという運命的なものを感じました。日本式のハムもアメリカ式のハムももちろんあっていい。でも「ドイツ式」とはこれなんだ。祖父から引き継いだ私のDNAが叫んでいました。もしかしたら大多摩ハムはハム造りにおける東洋のシーラカンスなのかもしれません。 6)短期間で仕事を覚えるには ドイツのお肉屋さんは必ずといっていいほど裏に小さな工場を持ち、そこでお店で売る分のハム・ソーセージを自分達で造ります。そのため小人数で少量多品種造るという特徴があり、F氏のところも例外ではありません。曜日毎に製造する製品が決まっていて、1週間単位で50種類以上の製品を生み出します。F氏の元には職人が2人、徒弟3人、そして研修生の私の計6人が当初おりましたが、徒弟は数週間ごとに学校へ通うし、職人の一人は兵役でいなくなってしまうし、F氏は組合の仕事で出かける事も多いため、私を含めて2〜3人だけで全製品を造るという日も珍しくありませんでした。もちろん、目の回る忙しさで、例のように「早くしろ!」と言い合いながらみんな朝の6時から走り回って仕事を続けます。今にして思えばこの想像を絶する仕事の絶対量、そして極端なまでの小人数のおかげで、私は1年余りの短い期間で全ての仕事にタッチすることができたのです。 |
7)「Du bist Metzger」(ドゥ ビスト メッツガー) 食事は朝昼、仕事の合間に食堂で同僚達と一緒にとりました。そんなある日、食事の世話をするフィリピン人のメイドさんがいなかったので、私が朝食の後片付けを始めようとしました。すると職人頭のクラウスは「Lass so, Kazuto」(そのままにしておけ、カズト) 私は「aber wie sieht hier aus?」(でもこれじゃ見た目が悪いさ) クラウスは「Nein,du kannst einfach so lassen」(いや、気にせずにそのままにしておけばいい)「Aber・・」(でも・・・) と私が言うと、クラウスは一言「Du bist Metzger」(ドゥ ビスト メッツガー){君はハム職人なんだ(そんなことは他の者に任せておけ)}。 どんなにこの「メッツガー」という言葉が重く響いたことでしょう。この世界ではMetzgerは肉、ハム・ソーセージの技術者、専門家であるという意味に加え、他の誰にも負けない誇り高き技術能力を持つ男という意味合いが含まれます。私はその時初めてMetzgerとして認められたこの上ない感動を覚え、口の中で「Metzger, Metzger 」と何回となく唱え、この称号の持つ重要な意味そしてその余韻に酔ったのでした。 |
8)汗と涙の処方箋 私の滞在が残り2ケ月ほどになったある日、私はF氏の居間に呼ばれました。「今から君は私に何を聞いてもいい。君が日本に帰ってからも私のところで習ったソーセージを造れるように、わからないことがあったら全て私に聞きなさい。」 彼は私に処方箋を伝えようとしているのです。私は走って自分の部屋から今までのノートを持ってきて、山のような質問を次々に投げかけました。何が何%、何度Cで何分。質問をし終えるまで大変長い時間がかかりましたがついに一冊のノートが完成したのです。部屋に戻りひとりそのノートを眺め、「ああ、ついにここまで来たんだなあ」と思ったら、なぜか急に涙があふれてしまいました。 |
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ドイツ式のハム技術者 Metzger(メッツガー)として免許皆伝「卒業証書」を授与される。 |
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ケルン滞在最後の晩は、私が初めて主催するAbschiedsparty(お別れ会)です。日本的に考えればなんとなく私が呼ばれる立場のような気がしますが、あちらでは私が皆を招待するのが当然なのだそうです。もちろん費用は私もち。でも勝手がわからないのでF氏に相談しながらプランを練りました。場所はF氏行き付けのパブ。ローストビーフのフルコースでもお値段はさほど高くありません。問題はいかに皆さんをホストするかです。当然ホストの私が新しく来たゲストを紹介して回ったり、グラスが空になっていないか気を配ったり、共通の話題を提供したりせねばなりません。もう心配しても仕方ないので誠意で勝負とばかりいざ当日。ふたを開けてみるとさすがオーバーマイスターのF氏がプロ級の社交術をいかんなく発揮して私をサポート。食後のレセプションでは次々にゲストが立ち上がり私にはなむけの言葉とプレゼントを贈ります。F氏からの贈物は「免許皆伝の卒業証書」。会場は自然と盛り上がり、ラジオ局ドイチェ・ヴェレの取材を受けるおまけつきで、盛会のうちにパーティは終了しました。帰る人ひとりひとりと握手を交わし、ともすれば明日もまた会えるような気がしながら、もしかしたらこれで一生会うこともないかもしれないと思うと、あの握ったひとつひとつの手のぬくもりが本当に貴重に思えました。 |
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| フランクフルト空港が目の下に小さくなって遠ざかって行くのをいつまでも見ていたあの日から20年以上が過ぎました。あれからいろいろなことがありましたが、今でも私にとってドイツは第二のふるさとであり、F氏は私の人生の恩師です。
今もF氏からもらった言葉を大事にしています。
「nicht das Grosste sondern das Beste, Kazuto.」 「最大を目指すのでなく最善であれ、カズト。」 |

☆)帰国の飛行機内で書いた自分への手紙「親愛なるわが青春へ」 ![]() 親愛なるわが青春へ |
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