ドゥ ビスト メッツガー
Du bist Metzger
-君はハム職人なのだ-
(株)大多摩ハム小林商会
(3代目)前社長 小林和人
1)はじめに
私の祖父は大正時代にドイツ人技師、アーグスト・ローマイヤー氏からハム、ソーセージの製造法を教わり、1932年大多摩ハムの前身「小林ハム商会」を設立しました。私も小さい時から「ハムの名門・ドイツ式の風味」という半世紀来の看板を見て、見知らぬ遠い国ドイツに憧れをいだいていました。
年が経つにつれ思いはつのり、ドイツ式のハム・ソーセージとは何か実際にこの目で見、この手で体験したいと思うようになり、ドイツ語会話を習い始める一方、全く当てのないドイツ技術留学への道をひとりで探すことになったのです。これは私が慶應義塾大学経済学部を卒業する前後、1982年から84年の間のお話です。
2)ドイツへの夢
ドイツの学校に留学するのは比較的困難なことではありません。しかし技術者、広い意味での労働力として向こうに渡るためには、多くの外国人労働者を抱えて高失業率に苦しむドイツ政府から、特別の許可が必要となります。当時日本の失業率はせいぜい2%台でしたが、ドイツの失業率はなんと10%を超えていました。いろいろな経済的要因があったのですが、当時のドイツ国内の空気は外国人労働者があまりにも多いせいだという感情が蔓延し、国家が特別に必要とする技術者でない限り外国人は新たに働くことができない法律が可決されてしまったのです。在日ドイツ商工会議所の関係者を訪ねて行くと、「100パーセントとは言わないが99.99パーセント無理でしょう。諦めた方が良いですね。」とのこと。確かにそうです。私はドイツ政府が特別に必要とする技術者でも何でもないのです。そうでなくてもこの世の中、どこの馬の骨かわからない一外国人を受け入れてくれるところが、ありそうには思えない、私自身もそう思いました。でも夢は捨てきれません。0.01%の望みがあるならそれに賭けよう。文字通り万が一ということもある。しかし、1万人にひとりか・・・。気持ちを奮い起こし、まず日本で大使館を通じ出来るだけのことをしましたが見通しはつきません。いっそ向こうで職探しをしようと一大決心。同じ留学でも、学生ビザなら簡単に取得できます。私は大学4年の就職活動のシーズンに当時、西ドイツ・ケルン市の語学学校の名門、オイロツェントゥルムに留学したのです。
私は先生に事情を説明して、頃合いを見計らって授業を抜け出し、あちらこちら自分の就職の売り込みをして歩いたのです。当時私の語学力は基本的な日常会話がせいぜい。ましてやビジネスの話などは不可能に近かったのですが、大胆にも官庁街、オフィス街をディパックひとつ肩にかけ交渉して歩きました。恐れを知らないのが若さと言えるかもしれませんが、何の頼りも、つてもない中、あまりにも大胆でした。予期した通り返って来る答えはどこも「Nein」(ノー)。変わったところでは珍客をしゃべるだけしゃべらせておいて、「実はここじゃないの。隣の部屋でまたやってくれる?」。礼を言ってドアを閉めるとドアの奥で大爆笑などということもありました。帰国が迫ったある日、ようやく最後のところで、「わかりました。私にまかせて下さい。あなたは日本で私からの手紙を待っていて下さい」という夢のような返事。半信半疑で日本に帰り、手紙を待つこと6ケ月。やっぱりだめだったかと半ば諦めかけた頃、ケルンからの一通の手紙。高鳴る胸をおさえて封を切る。一行目。「あなたを受け入れて下さる方が見つかりました。ケルンの食肉組合長、オーバーマイスターでいらっしゃる、フロイツハイム氏です。」その文章を読んで湧いてくる、念願が叶った喜びと、「大変なことになった」という不安が入り交じった奇妙な感覚は今でもはっきり覚えています。
3)ケルンへの険しい道
西ドイツ第4の大都市ケルンで私は働くことになりました。親方のフロイツハイム氏はドイツ全土において最年少でオーバーマイスターに就任したケルン食肉業界の最高実力者です。政府の滞在許可は、彼(以降F氏)が直接プレジデントに掛け合ってくれたため、例外中の例外として手に入れることができました。彼の家に居候して、勝手に仕事は手伝うけれども、お金のやりとりはしないので法にふれない、という論拠でした。当時、ドイツの大学や音楽学校への留学はさかんでしたが、ドイツのハム屋で働くことのできた日本人は私の年齢では今の日本の業界でも稀なことから、まさに0.01%の狭き門だったのかもしれません。そうと決まったら早くドイツに行きたい。でもインターネットのない時代です。手紙の一往復に2週間近くもかかるのです。いてもたってもいられず、日本橋の丸善で欧州列車時刻表を購入し、ケルン駅に最短で到着できる日時を手紙に書き、了解の返事をいただくや否や日本を出発しました。今考えればあまりにも無謀です。手紙でもっと時間をかけてよく確認しなければならないことがいっぱいあったのに。その約束の日時にどうしてもドイツ・ケルン駅に着かなければならないように自分でそうしてしまったのです。そこで予期せぬ大事件が起こります。
私は当時、最も航空券の安かったソ連のアエロフロートでモスクワ経由、フランクフルトへ向かいました。忘れもしない丁度その1983年9月1日、なんとソ連が大韓航空の民間機ボーイング747を領空侵犯の疑いで撃墜し、乗客乗員269人全員が死亡するというとんでもない事件が発生したのです。私はそのときソ連上空です。家族はどんなに心配したことでしょう。ものは考えようで、アエロフロートだったからこそソ連に撃ち落とされる心配はなかったという後日談もありますが、他の航空路線が大混乱する中、私はなんとか無事にフランクフルト国際空港にたどりつきました。次は汽車です。フランクフルト駅からケルン駅まで特急でも2時間ほどかかりますが、F氏と約束した汽車に乗らなければいけないのです。しかし駅でもトラブルが発生している様子で、ひとりの駅員を大勢の客が取り囲んで大声で叫び合っています。まったく何を言っているのかわかりません。それでも私の番になったのでおそるおそる「ケルンへはどうやって行ったらいいですか?」と聞いたら、駅員は興奮した早口でまくし立てるので、もはやヒヤリング不能。ただ、「何番線へ急げ」というように聞こえたので、重たいトランクを引きずりながら地下道への階段を駆け下り、そして目ぼしいプラットホームを見つけ駆け上がります。腕がちぎれそうです。もう発車のベルが鳴ってます。汽車を間違えたらアウトです。私はドアの中に立っている客にドイツ語で、これはケルンに行きますか「ナッハ ケルン?」と聞いたら「わからない」というのです! そうか、英語か、「トゥ コローニュ?」 すると相手は「ヤー、カモン、ハリーアップ!」私が駆け込んだ瞬間、ドアが閉まりました。「間に合った・・・。」トランクを握り締めていた腕をほどいたら、もう握力も感覚もなくなっていました。
美しいライン川の車窓を愛でる余裕もなく汽車に揺られ、ようやくケルンにつきました。私はF氏と事前にお互いの写真の交換すらせずに、大きなトランクを持ってケルン駅に降り立ったのでした。すると大柄な立派な体格の人が私に笑みを浮かべて近づいてくるのです。汽車から降りてくる日本人らしい若者は私だけだったのでしょう。「Ich freue mich, Sie kennenzulernen.」(お会いできて嬉しく思います)これがF氏との運命の出会いでした。彼は貫禄がありかつ紳士的で、彼の家族や、職場で私が一緒に働く同僚達を紹介してくれました。小説などの世界ではこういう時F氏に美しい娘があって、華麗なストーリーが展開するんだろうなあ、なんて汽車の中で考えたりしたのですが、実際F氏には16才の娘さんがいて、それがまたブルック・シールズを小柄でぽっちゃりさせたような美しさ。紹介されてあまりの可愛らしさに思わず「話が出来過ぎている!」
4)仕事に厳しいF氏
そう話はうまくなく、実際職場での仕事は想像を絶する厳しさでした。ご存知のようにドイツは中世からギルドの歴史を誇り、手工業においては完全な徒弟制度が今も根強く残っていて、親方、職人、徒弟の上下関係は絶対です。特に私がいたところはその傾向が著しく、親方は下の者を容赦なく叱り飛ばします。私が仕事を始めてしばらくはF氏も遠慮していたのでしょうか、カミナリを落とすことはありませんでした。しかしそんなある日、同僚が古い牛肉から取りかかるべきところ、新しいものに手をつけてしまったようで、冷蔵庫を見に行ったF氏がそれを発見。数10キロある牛肉をかついで出てきて作業台の上に叩き付けるやいなや、天を突く大声で、「こんな簡単なことが出来ないんだったら、もう君たちは手伝ってくれなくていい!」あまりの迫力に私は唖然。話によるとあれが徒弟達に対するF氏の本来の姿なのだそうです。でもF氏は私に対してだけは決して怒らず優しく話してくれるので、私は時々難しい立場になります。例えばこんなことがありました。挽肉機の刃を取り替える仕事を私がやったところ、間違えて10ミリの細切れが5ミリのズタズタになってしまったのです。それを見たF氏が傍にいた私の同僚をつかまえて。「何で気が付かなかったんだ!」とまた叱り飛ばしました。私は非常に申し訳ないと思いましたが、思いのほかその同僚は私には怒りの矛先を向けず、ヤツには気を付けなければいけない、と思っている様子で、間違いの原因となった挽肉機の刃の名称を、後で熱心に私に教えるのでした。それにしてもドイツには挽き肉機の刃、数種類それぞれに固有の名前があるのには驚きました。
5)私の同僚達
私の同僚達は皆私より若いながらもはるかにデカく、牛のような連中です。この世界では年齢よりも経験の長さがものをいい、私は経験ゼロなので序列の一番下。私の希望もあって新米がやるべき仕事を優先的にやらせてもらいました。当初大変な仕事のひとつは床磨きでした。「カズト、床をこすってみろ」とデッキブラシを渡され、常識的な要領で床磨きを始めました。が、同僚は私からデッキブラシを奪い取るが早いか、「いいか、こうやるんだ、見てろ」と言って牛のような体をふたつに折り曲げ、あたり一面水しぶきをあげてこすりはじめました。そのものすごいこと。デッキブラシの柄が折れんばかりです。以来私はそれと同じ作業を要求され、もうその仕事だけで体力を使い切ってしまいました。ドイツ語も大変です。職場では初めての単語にたくさん出くわします。最初は簡単な「バケツ」という単語さえも知りませんでした。ドイツ語では「アイマー」といいます。「カズト、アイマーを持って来い」「アイマーって何ですか」「これがアイマーだ。」、「わかりました」でも次から次へと新しい単語が出てきます。「あれもってこい」、「あれって何ですか?」、「これもってこい」、「これって何ですか?」、「アイマーもってこい」、「アイマーって何ですか」、「さっき教えたろう!(怒声)」、「・・・・。」また日本で習った私のドイツ語はNHKのような標準ドイツ語「Hochdeutsch」(ホッホドイチュ)です。そのため私の話す内容は皆一応理解してくれます。しかしケルンは地図上で言えばドイツの左上。オランダのすぐそばで、彼らのドイツ語はKoelsch(ケルシュ)という極めて難解な方言です。日本で言えば東北地方のズーズー弁で外国人には理解できません。賢い彼らは仕事中、私へは共通語で命令し、仲間との会話はズーズー弁で話すのです。休憩時間も同僚の会話はまったく理解できません。孤独です。しかし仕事は激務です。当時の仕事で一番大変だったのは何といっても「枝肉かつぎ」でした。自分の体ぐらいの大きさの豚の枝肉をかついで運び、私が背伸びしてようやく届く高いハーケン(釘)にかけるのです。さらに牛肉の場合は自分より大きな肉塊ですので、すべって転んだら大怪我をするといわれました。勇気を出してかついでも最初は歩けず、歩けてもハーケンになかなか届かず、その上同僚達の「早くしろ、モタモタするな!」の声。この作業を20回続けなくては次の仕事に取りかかれず、もう途方に暮れました。なんでまた彼等はああ人をせかすのか。私は理解に苦しんだのですが、何かにつけ「もっと早く、カズト」とせっつきます。あおられるとこちらも焦って指を切ったり、かえって手間取ったりするのですが彼等にはその分別が付かず、「このくらいで痛がるなんて君は女か!」と、もう逃げ場もなく、ひたすら怒鳴られぬようにがんばるしかなかったのです。
☆)ドクターストップか
私は極度の疲労とストレスでノイローゼ寸前。ついに血尿が出てしまいました。私は驚きすぐに医者にかかりましたが目の前は真っ暗です。世の中には留学経験者がたくさんいるのに、みんなどうして健康でいられたんだろう。これで帰国しなくてはならなくなるのだろうか・・・と不安にかられました。
優しいF氏は地下室に住んでいるのも体に良くないだろうということで、運良く空いた3階の部屋に移動させてくれました。また外国人同士の話し相手がいる唯一の楽しみだった夜間の語学学校もあきらめ、全てを捨てて、ハム造りの仕事だけに残る体力を集中しました。
すると独り相撲をとっている自分に気付きました。一学年に数百人も精鋭の集う慶応高校の中で成績優秀者で表彰されたり、無遅刻無欠席を褒められて楯をもらったり、大学の経済学部ではゼミの論客と持ち上げられたり、全てが私の身の丈以上、つまり出来過ぎだったのです。開き直って、もうあるがままでいいじゃないか、できないもんはできないんだよ! 私もドイツ人のように思考回路を切り替えました・・・。ようやく光が見えてきました。今思うと、これがドイツでの最大の試練であり、後の人生に活きる大きな経験でした。ドイツ人とのやりとりで、ようやく気づいたのですが、ドイツ人社会では、少なくとも私の職場では、言われたら言い返すことができなければそれは自分の非を全面的に認めることになります。言うなれば、「早くしろ!」「・・・・(無言)」の場合、「私は怠けています」という意思表示になるのです。それを悟った私は常に頭の中で、ここらへんでヤツは言ってくるだろう、そうしたら私はこう言い返そうとドイツ語で考えることを心がけました。すると予想通りくるではありませんか、「カズト、そんな仕事に何時間かけているんだ!」そして私は即座に「黙れ!君がこれをボイルしすぎたから、ここで手間がかかってしまうんだろう!」すると彼は「・・・・。」私は勝ったのです。日本でこれをしたら間違いなく人間関係が破壊されますが、ここではまったく逆。このように攻撃的に反論することによって、みんなから「ああ、ヤツは今日もがんばっている」と思われ、かえって人間関係はスムーズに行くという不思議な世界なのです。実際先程の彼との仕事はその後快調に和気あいあい進みました。もう大丈夫です。神様、ありがとうございます!
☆)ドイツの製品がおいしいのは
がむしゃらに働きながらも頭は比較的クールでした。知れば知るほど驚きが見えてきました。ドイツの伝統製法にはある重大な特徴があります。これは偶然ではありません。ドイツの製品がおいしいのは下記の理由によります。ドイツ式伝統製法の特徴は、①たんぱくを加えたハムやベーコンを1本も作らないこと。②直下式で燻製すること、③ベーコンを煮たり蒸したりせずに作ること、④最小限の添加物で造ること、です。これは私がドイツに渡る前に大多摩ハムで習った製法、考え方とまったく同じでした。日本では上記の4つを厳守するメーカーは大変めずらしいのですが、ここでは「常識」でした。祖父が大正時代にドイツ人から教わった方法を大多摩ハムがいまだに守り続け、当のドイツでもまた頑固にその製法を守り続けていたのは驚きで、私はここドイツに来るべくして来たという運命的なものを感じました。日本式のハムもアメリカ式のハムももちろんあっていい。でも「ドイツ式」とはこれなんだ。祖父から引き継いだ私のDNAが叫んでいました。もしかしたら大多摩ハムはハム造りにおける東洋のシーラカンスなのかもしれません。
6)短期間で仕事を覚えるには
ドイツのお肉屋さんは必ずといっていいほど裏に小さな工場を持ち、そこでお店で売る分のハム・ソーセージを自分達で造ります。そのため小人数で少量多品種造るという特徴があり、F氏のところも例外ではありません。曜日毎に製造する製品が決まっていて、1週間単位で50種類以上の製品を生み出します。F氏の元には職人が2人、徒弟3人、そして研修生の私の計6人が当初おりましたが、徒弟は数週間ごとに学校へ通うし、職人の一人は兵役でいなくなってしまうし、F氏は組合の仕事で出かける事も多いため、私を含めて2~3人だけで全製品を造るという日も珍しくありませんでした。もちろん、目の回る忙しさで、例のように「早くしろ!」と言い合いながらみんな朝の6時から走り回って仕事を続けます。今にして思えばこの想像を絶する仕事の絶対量、そして極端なまでの小人数のおかげで、私は1年余りの短い期間で全ての仕事にタッチすることができたのです。自分で言うのもおかしいのですが、私は手先が器用でした。私の父も祖父もハム職人ですから、この仕事に向いた性分が多少あるのかもしれません。職場のベテラン職人が若い徒弟に、「その仕事はカズトの方が上手だからおまえは機械を洗っていろ」などと言うこともありました。私は次々に新しい仕事に携わることができ、製造について教わったことを忘れないうちにノートに記録しつづけ、わからない部分が大半で虫食いの状態ではあるけれども私なりの「トラの巻」ができつつあったのです。
☆)家族の応援
留学は、家族の協力がなければできない話です。日本語に飢え、日本から届いた小包の中のクッションに使われていた新聞紙をていねいに伸ばし、記事を隅から隅までくまなく読みました。また夏目漱石や森鴎外も日本にいたらあまり読まなかったでしょうが、ここではすごく新鮮な文章に感じたので、あらかた送ってもらって読破しました。一年間、何があっても帰らないと心に決め出国し、その間、縁談が決まった姉の結婚式にも戻らず仕舞い。披露宴で読んでもらう姉へのメッセージを書きながら、姉との思い出に涙が止まらず便箋が濡れました。
7)「Du bist Metzger」(ドゥ ビスト メッツガー)
食事は朝昼、仕事の合間に食堂で同僚達と一緒にとりました。そんなある日、食事の世話をするフィリピン人のメイドさんがいなかったので、私が朝食の後片付けを始めようとしました。すると職人頭のクラウスは「Lass so, Kazuto」(そのままにしておけ、カズト) 私は「aber wie sieht hier aus?」(でもこれじゃ見た目が悪いさ) クラウスは「Nein,du kannst einfach so lassen」(いや、気にせずにそのままにしておけばいい)「Aber・・」(でも・・・) と私が言うと、クラウスは一言「Du bist Metzger」(ドゥ ビスト メッツガー){君はハム職人なんだ(そんなことは他の者に任せておけ)}。
どんなにこの「メッツガー」という言葉が重く響いたことでしょう。この世界ではMetzgerは肉、ハム・ソーセージの技術者、専門家であるという意味に加え、他の誰にも負けない誇り高き技術能力を持つ男という意味合いが含まれます。私はその時初めてMetzgerとして認められたこの上ない感動を覚え、口の中で「Metzger, Metzger 」と何回となく唱え、この称号の持つ重要な意味そしてその余韻に酔ったのでした。
8)汗と涙の処方箋
私の滞在が残り2ケ月ほどになったある日、私はF氏の居間に呼ばれました。「今から君は私に何を聞いてもいい。君が日本に帰ってからも私のところで習ったソーセージを造れるように、わからないことがあったら全て私に聞きなさい。」
彼は私に処方箋を伝えようとしているのです。私は走って自分の部屋から今までのノートを持ってきて、山のような質問を次々に投げかけました。何が何%、何度Cで何分。質問をし終えるまで大変長い時間がかかりましたがついに一冊のノートが完成したのです。部屋に戻りひとりそのノートを眺め、「ああ、ついにここまで来たんだなあ」と思ったら、なぜか急に涙があふれてしまいました。
9)お別れ会
ケルン滞在最後の晩は、私が初めて主催するAbschiedsparty(お別れ会)です。日本的に考えればなんとなく私が呼ばれる立場のような気がしますが、あちらでは私が皆を招待するのが当然なのだそうです。もちろん費用は私もち。でも勝手がわからないのでF氏に相談しながらプランを練りました。場所はF氏行き付けのパブ。ローストビーフのフルコースでもお値段はさほど高くありません。問題はいかに皆さんをホストするかです。当然ホストの私が新しく来たゲストを紹介して回ったり、グラスが空になっていないか気を配ったり、共通の話題を提供したりせねばなりません。もう心配しても仕方ないので誠意で勝負とばかりいざ当日。ふたを開けてみるとさすがオーバーマイスターのF氏がプロ級の社交術をいかんなく発揮して私をサポート。食後のレセプションでは次々にゲストが立ち上がり私にはなむけの言葉とプレゼントを贈ります。F氏からの贈物は「免許皆伝の卒業証書」。会場は自然と盛り上がり、ラジオ局ドイチェ・ヴェレの取材を受けるおまけつきで、盛会のうちにパーティは終了しました。帰る人ひとりひとりと握手を交わし、ともすれば明日もまた会えるような気がしながら、もしかしたらこれで一生会うこともないかもしれないと思うと、あの握ったひとつひとつの手のぬくもりが本当に貴重に思えました。フランクフルト空港が目の下に小さくなって遠ざかって行くのをいつまでも見ていたあの日から約30年が過ぎました。あれからいろいろなことがありましたが、今でも私にとってドイツは第二のふるさとであり、F氏は私の人生の恩師です。今もF氏からもらった言葉を大事にしています。
「nicht das Grosste sondern das Beste, Kazuto.」
「最大を目指すのでなく最善であれ、カズト。」
(カール・ハインツ・フロイツハイム)
☆)帰国の飛行機内で書いた自分への手紙「親愛なるわが青春へ」
親愛なるわが青春へ
とうとう日本へ帰国する飛行機の中に私はいる。ケルンでの仕事を始めたばかりの頃は、何度日本に飛んで帰りたいと思ったことだろう。しかし今や、私はその機内にいる。今やその時が来たのだ。ドイツでの生活が私にとって何であったのか、いま一度よく考えねばならない。それは夢のように見える。私はかの如く長い夢を見ていたのだろうか。いや、これは現実だったのだ。でもどうしてそれがわかるのだ? 例えば私は力強くなった。太くなった。その上私の腕には一生消えない刀傷も多く残った。それらによって私がドイツにいたことを忘れずにすむだろう。フランクフルト空港を飛び立つ時、私はとても悲しかった。ああ、私の青春が終わった。すべてが過ぎ去った。私はまた思う。なんと私は幸せだったのだろうと。
私の友人、同僚、シェフ、奥さん、みんな、なんて優しかったんだろう。私は彼らを忘れない。忘れられるわけがない。
10)あとがき
過日、青梅市と姉妹都市であるドイツのボッパルト市から、ベアシュ市長と留学生たちが大多摩ハムの工場見学に見えました。久しぶりのドイツ語で長時間演説するのは勇気がいりましたが、私は彼等にこの長いお話をしました。彼等は真剣に聞いてくれているのかニコリともせず黙っています。私は言葉が通じなかったのかなあと不安になり、最後に「みなさん、おわかりいただけましたか」と尋ねたら、全員から笑顔でブラボーの拍手をいただきました。なんかすごく長い時間拍手が続いたような気がして恐縮しましたが、私は彼等に伝えられたような気がします。夢を持ち、若さをぶつけていけば「望みは叶う」ということを。
2001年、青梅市と姉妹都市であるドイツのボッパルト市のベルシュ市町と学生たちが大多摩ハムに研修に来た際に行った、社長による公演です。社長のドイツ留学について話しています。
※動画の画質が粗くなっております、ご了承ください。
11)あとがき その2
平成24年10月4日、母校慶応義塾大学から依頼を受けて「21世紀の実学」という講座の講師として、このお話しをしました。帰国後丁度30年にあたるこの時期に、現役の慶大生たちに話をすることができて光栄でした。受講希望者は500人くらいいた中で、抽選で選ばれた約300人が受講できたそうです。みなさんとても熱心に聴いてくれて、「勇気づけられた」との感想文もたくさんいただき、こちらも感激しました。
12)あとがき その3
平成25年3月29日、ドイツ留学30年の節目に、恩師カール・ハインツ・フロイツハイム氏をケルンに尋ねました。73歳の誕生日直前ですが、エネルギッシュな当時の姿そのままでした。
2016年の春、フロイツハイム氏が来日し、本社にて「ドイツ製法のハムとは何か」について講演してくださいました。
ぜひ動画をご覧ください。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。